James先生 離任式 (7月20日)

1学期終業式は、暑さによる熱中症防止のため放送により
実施され、その後James先生の離任式がありました。

James先生は、2015年11月から日野高校で外国語指導助手として、
授業だけでなく軽音楽部や合唱部などで生徒と一緒に活動するなど、
学校に溶け込んで活躍しました。

放送による先生からの英語と日本語でのスピーチのあと、
全校生徒が教室から見守る中、 中庭で代表生徒からの
メッセージと花束の贈呈を行いました。

放課後には先生との別れを惜しむ生徒が列をなして
感謝の言葉を伝え、その人気ぶりがうかがえました。

James先生の今後の活躍を祈ります!

(日野高校WEBサイト、日野高ニュース より)

僕の好きな先生

昭和42年から52年まで、日野高校に勤務された小林晴雄先生が、
今年4月8日、日野高校近くの病院で永眠されました。85歳でした。

小林先生は美術担当で、転勤されてからも美術部OBを中心に
多くの卒業生と交流がありました。二期生の忌野清志郎さん作詞の
「僕の好きな先生」のモデルであったことはよく知られています。
4月13日の告別式には、先生との別れを惜しんで、
沢山の卒業生が参列したそうです。

小林先生を偲んで

私は、小林先生に2年生のときに担任していただきました。
いつも穏やかでニコニコしていて、学級の運営は生徒らの
自主性を重んじていただいたと記憶しています。

また、絵画を特に苦手としていた私でしたが、
年度末の美術の評点が5段階の「4」を頂戴し、
私の人生で最も高い美術科の評価だったので、良く憶えています。

ただ、美術準備室に出入りするようになったのは、
むしろ3年生になってからでした。
当時、何人かの不良生徒はひまをみては、あるいは授業を
サボってひまをつくっては美術準備室にたむろしていました。
小林先生はそんな生徒たちを邪険にすることなく、
時に相談を受けたり、ここでも穏やかで、誰かの歌にもあるようにいつも
「タバコ」をくわえ、たまに「教室に戻れ」などと言っていました。

その美術準備室は、小林先生とタバコのにおいともう一人
「栗原清志くん(後の忌野清志郎さん)」がその部屋の主人でした。
栗原君と先生は何か言葉を交わすでもなく、お互いに本を読んでいたり、
まるで親子が寄り添っているようにみえ、とてもうらやましいと思える空気でした。

卒業後は長くご無沙汰をしてしまいましたが、3年前にOB展開催時にお会いした時も
私のことを覚えておいてくださりお元気そうでなによりと感じておりましたが・・・。

私も近い将来、先生を追っかけることになりますが、
あちらでお会いしたときも顔と名前は憶えておいてください。

小林先生。安らかにお眠りください。

《東京都立日野高等学校同窓会会長 後藤 正幸(第2期生)》

※小林先生と忌野清志郎さんの記事

清志郎「先生のこと歌に」… 「ぼくの好きな先生」秘話(朝日新聞社)

僕の好きな先生~高校生時代の忌野清志郎が慕った美術部顧問の教師

忌野清志郎さんこと 父のこと 小林晴雄さんのこと

=同窓会事務局より=
小林先生との想い出等々、お寄せいただければ
以下に追加で掲載させていただきますので、
コチラからどうぞお寄せくださいませ。

~卒業生より~

私達6期生が高校3年生だったころ、
勉強があまり好きではなかったり、
得意ではなかった生徒にとって、
美術準備室は居心地のいい場所でした。

そこには、小林先生が描かれた高校の校舎の
油絵が飾られていました。
キュービズム風で力強い作品。
本気で 美大を目指していた同級生に、

「先生にでもなろうと思って美大に進学しようとするなら、
やめたほうがいい、絵描きなるんだという意思がなければ・・・」

みたいなことを先生は言っていました。

「自身が先生してるじゃないですか」

との生徒の言葉に、苦笑いしていましたが。
その絵には、先生の気持がとても良く出ていたのではないでしょうか。

その後、ずいぶん経って、私は先生に誘われて
同じ公募展に出品するようになりました。

このころの穏やかな作風の先生の絵は、優しい小林先生らしいと、
皆さんに評価されていました。

けれども、無口で頑固な先生の本質は、
あの美術準備室の絵の中にあった気がしています。

[第6期生 榎本 豊]